札幌でフラを踊る人のブログ

日々のレッスンとハワイとフラに関する覚え書き

レッスン

本日は月イチのオルオルレッスン。
今日のレッスンは充実していました。

今、オルオルっ子が取り組んでいる曲は、彼女たちの実力の遥かに上を行く難曲。
正確で揺るがないステップの上に成り立つ、優美なハンドモーションが要求されるもの。
彼女たちがこの曲をレッスン曲に選んだ時に、わたしは少しだけ考えましたが結局は🆗を出し、数か月取り組んできました。

オルオルっ子のフラ歴は5年から10年の間と言ったところでしょうか。歴としてはそれなりになんでも踊れるはずなのですが、個人差も大きいです。
差はベーシックの出来に比例しているところがあります。これは、どうやって体を動かすことが正解なのか、理解度に差があることに起因します。
わたしの理想としては、カウマカイヴァ・"ロパカ"・カナカオレ嬢(あえての嬢)のように、大地と密着し、多少周りから押したりしてもビクともしない安定感なのですが、まぁそれはあくまでも「理想」であって。
とはいえ、大地を押している(足裏で)感がまったくないカホロというのも、かなり問題。地面を掃き均すようなカホロ(尺取り虫カホロと呼んでいるw)では、本来ステップに求められる「ビートを刻む」ことが体感できないし、見る側にも伝わらない。
そこで曲のレッスンを中断して、ステップの見直しをしました。
オルオルっ子からはとても良い質問も出て(4歩目の加重について、など)、少し意識を変えるだけでステップがグッとレベルアップしました。

もう一つは感情面です。
オルオルっ子の一人が、悲しい顔、辛そうな顔で踊っています。
理由を聞くと、お嬢さんが進学のため家を離れる日が近づいているとのこと。
子供の成長は嬉しくもあり、寂しくもある、というのは子供を持つ人じゃないとわからない感覚ですよね。
いつも生徒さんには「フラはその人の内面がすべて出る。優しい人は優しいフラを、意地悪な人は意地悪なフラを、明るい人は明るいフラを踊るんだよ」という話をしているのだけど、伝わっている感じがありませんでした。
でも、今回は本人も、周りも「なるほど」と合点がいったようです。

別のオルオルっ子がとても良い表情で踊っていたので「なにを考えて踊っていたの?」と尋ねてみました。すると「自分には手の届かない、素敵な人を想って踊りました」とのこと。歌詞の世界観を身近なところに引き寄せて、感情を乗せて踊った、というのです。とても素敵な表現だったので、花まる級の褒め言葉をプレゼントしました。
歌詞の世界を表現するのがフラダンサーの使命です。
とはいえ、世の中には「私を見て!」ダンサーの、なんと多いことか(タメイキ)。先日、フラシスから「私を踊るのではない。フラを踊るのだ」という至言をシェアしていただいたのですが、その言葉もオルオルっ子にも伝えました。
これまた良い質問が出て「歌詞の世界を演じる、のはどうですか?」というものでした
女優のような七変化の表現力があれば、それも可能でしょう。しかし、一介の趣味フラダンサーの我々にそこまでの演技力、表現力があるかと言えば推して知るべし。
それよりも前述の生徒さんのように、自分の身近な出来事や人との関係性に当てはめて感情を乗せる方が取り組みやすいと思います。どうでしょう?

さらに。
自分の体をどのように活かすか、ということにも触れました。
体型の違いというのはフラに限らず、踊りを踊る上で相当に大きなウェートを占めます。
手足の長い人、背の高い人、ふくよかな人が、自分の体の特徴を活かすことなく、小さなせせこましい踊りを踊ることほど「もったいない」ことはありません。
8拍の音をたっぷりと使って、大きな軌道で(遠いところを通して、とよく言うのですが)踊ることを口を酸っぱくして伝えています。
もちろん、背の小さい人、華奢な人がダメな訳ではない。前者にアドバンテージがある、というのは事実ですが、小さい人にも彼女たちしか表現できない魅力があります。
だから群舞は難しいし、面白いと思うのです。

わたしとしては大満足のレッスンになりましたが、オルオルっ子はどうだったかな?